日本最古の2大インディレーベルであるエレックレコード、URCレコードの名盤の数々をPONY CANYONから復刻CD化!!

エレックレコードURCレコード
エレックレコード・URCレコード 復刻プロジェクト2009
URCレコードとは

URCレコード小史

1960年代後半、日本でも反戦・変革運動の高揚にともないプロテスト・ソングを歌うフォーク歌手が登場してきた。高石友也である。彼の事務所として発足したのが大阪の高石事務所(社長・秦政明)で、68年にはフォーク・クルセダーズ、岡林信康、中川五郎、五つの赤い風船、高田渡、ジャックス、遠藤賢司などを抱え、いわゆる"関西フォーク"の一大拠点となる。これらアーティストの過激な作品を"レコ倫"(日本レコード協会の制作基準委員会規定)の規制に縛られることなく、自由にレコード化しようということで高石事務所が設立したのが、日本最初のインディペンデント・レーベル、URCレコードだった。

当初のURCは"アングラ・レコード・クラブ"という会員制組織としてスタートした。これは、会員になった者にのみ制作したレコードを配布するというもので、69年2月の第1回、4月、6月、8月、10月と、第5回まで続き、会員には毎回LP1枚とシングル2枚が送られたのである。ちなみに、記念すべき第1回配布分は、LPが『高田渡/五つの赤い風船』、シングルがミューテーション・ファクトリーの『イムジン河』とトリン・コーン・ソンの『坊や大きくならないで』というラインナップであった。会費は1回につき2千円。第5回まで完納した会員にはボーナス・レコード1枚が送られた。 会員数は当初千人までの限定と考えていたが、希望者が多いことから2千人まで広げた。しかし、第3回の配布後も入会希望者はあとをたたず、制作の本数も増加の一方だった。こうした要望に答える形で、高石事務所と系列のアート音楽出版の提携によって、新会社"URCレコード"が設立され、制作レコードの市販にふみきることになったのである。

流通は取次を通さず、全国のレコード店や楽器店と販売契約を直接結ぶ形でおこなうことにした。こうして、69年8月1日、URCレコードの第1回新譜として発売されたのが岡林信康の『わたしを断罪せよ』と五つの赤い風船の『おとぎばなし』というLP、『新宿1969年6月』なる7インチ盤であった。また、すでに会員用として配布されていた先述のレコードのいくつかも同時に市販されることになった(このことで"レコードの希少価値が減る"とコレクター心理丸出しのクレームをつけてくる会員も既にいたらしい)。

こうしてURCはスタート以来、多彩でユニークな名盤をいくつも世に送り出した。五つの赤い風船、高田渡、遠藤賢司、早川義夫、休みの国、斉藤哲夫、加川良、はっぴいえんど、三上寛、友部正人、ザ・ディランU、金延幸子、シバなど、ここからデビューした強烈な個性は枚挙にいとまがない。中には久保田誠(麻琴)のようにシングルだけ出した者もいる。

つくづく不思議なのは、よくこんな小さな会社にこれだけの才能が集まってきたものだということである。特にオーディションやコンテストとかをやっていたわけでなく、単に友達の友達レベルのつながりでこうなったのだから凄い。60年代後半という特有な時間がおこした奇跡としかいいようがないだろう。大きな会社が全国規模のオーディションをやってもなかなか才能を見つけられない昨今からは考えられないことだ。 "日本初"と呼ばれるようなことをURCはずいぶんやっている。ジャケットのデザインや録音にも凝って、矢吹申彦、吉野金次などを一早く起用したりもしていた。西岡たかし、早川義夫、岩井宏らプロデューサーのセンスも良かった。今となって特に有り難いのは、高石事務所(70年1月から"音楽舎"と改称)が主催コンサートのほとんどをテープに録っていて、それをちゃんと残していたことだ。かけがえのない時代の貴重な記録、その一部が、おかげでこうしてCDで聴けるわけである。URCに続いて69年4月に発足したマイナー・レーベルが“エレック・レコード”で、ここからは吉田拓郎、泉谷しげる、古井戸などがデビューした。

URCに刺激され、メジャー各社も71年頃からフォーク/ロック系のレーベルの設立にのりだす。これにともなってURCのアーティストの大半がキング、CBS・ソニー、ポリドールなどへ移籍することになる。レコ倫に抵触するような過激な詞の作品も少なくなり、URCの存在意義もうすれていった。そして、販売をエレックに委託するなどして徐々に縮小体制に入りつつも、制作は細々と続けていたURCが、その活動に終止符を打ったのは、1977年のことだった。